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2017年6月22日 (木)

ref20170606人間の一生(前編) 人生という冒険とライフサイクル

人間の一生 文化人類学的探求 編集/綾部恒雄 アカデミア出版会

新編 人間の一生 文化人類学の視点 編集/綾部恒雄 アカデミア出版会

 

Hemanlife2

 

はじめに
 HEKCのテーマは神話的世界の表現であり、その根底にあるのは汎用的な生命の概念だ。※1 そして生きている者には人生、すなわちライフサイクルがある。

 今までにもライフサイクルへの言及は頻繁に行ってきた。

 プロップの物語論では、人生が加入礼(課題を解決して新しい状態へと移行するイベント)の連続体であることに触れた。※2

 『オックスフォード動物行動学事典』では動物のライフサイクルを擬人化することで人間の人生を顧みた。(→ref20160829人間の動物化)※3

 しかし人間の一生を正面から扱うことはなかった。あまりにも身近であるため、敢えて触れるまでもないと考えていたからだ。

 しかしこの考えを改めることにした。当倶楽部における基本的な概念である以上、一度は自らの言葉で触れておくべきではないか、と思ったからだ。

 そこで、ライフサイクルを扱った底本を探したが、思いのほか難航してしまった。人間の一生を時系列で網羅した本が、意外と少なかったのだ。

 実は心理学には多いが、それでは内面に偏り過ぎてしまう。できれば文化人類学の本が欲しかった。(余談だが、エリクソンのライフサイクルは人類学から着想を得たらしい)。

 ここでも、人間の一生という概念が、身近過ぎるのかもしれない(文化人類学の入門書には、必ずといって良いほどページが割かれている)。そんな中、この本に出会った。

 実は旧編を以前から知っていたが、かなり昔の本だ。知識のアップデートも兼ねて他を探したが、結局見つかったのは数年新しいだけの新編だった。

 しかし、ここでアイデアが浮かんだ。新旧を比較しながら読めば、幅広い知見が得られるのではないかと思ったのだ。

 ライフサイクルの概念自体がそう変わるとも思えない。新しい本が見つかったところで、より今の時代に引き寄せたコメントが付けられているだけだ。

 執筆者が半分以上入れ替わっているのが確認できると、さらに期待は高まった。もう別の本と言っても過言でない。

 このようなもので、意気揚々と出発したのだが、すぐに行き詰ってしまった。底本はタイトルも『人間の一生』だし、章立ても概略も、人間の一生に順番に触れていくと謳っていた。

 しかし実際には、各章で記述が前後に、あるいは人生全体に及ぶなど、視点の混乱が見られた。章ごとの独立性を重視した展開のようだ。

 言い換えれば、人間の一生がそれだけ複雑で多彩であり、簡単にはまとめられない、ということなのだと思う(でもブッタ切るよ!)

 そこで、今回は示されている大まかな順序に沿って、各章から該当箇所を、モチーフとして集めてこようと思う。それによりコンテンツの再構成を目論むことにする(仕切り直しだ)。

 そのため、視点を一人の個体に固定する。よって親子関係の場合、子供のときには子に、親になった時は親に固定する。よって同じことが視点を違えて2度語られる可能性がある。

 今回は、本を踏破するというよりも、散策に近いものになるだろう。新旧の底本を歩き回って素材を拾い集め、それぞれの時期を形作るのだ(基本的には、新編を主とし、特に但し書きがなけれな新編に言及したものとする)。

 加えて、その時期に解決しなければならない課題を導き出そうと思う。人間がその時期になれば自ずと持つ、潜在的な課題、HEKCが「キャラクターの課題」と呼んでいるものを示したいのだ。(→hekc091002キャラクターの課題

 さらにその際、エリクソンの発達課題に触れる。「キャラクターの課題」の元ネタだが、正面から扱うには専門的過ぎる。副次的要素として添える程度なら、何とかなるだろう。

 せっかく仕切り直したのに、またハードルを上げてしまった・・・(気を取り直して)ではそろそろ、始めよう・・・

※1 ref20151003ウラジーミル・プロップ(本編) 昔話の形態学と魔法昔話の起源
    https://kokutoarchives.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/reference201510.html

※2 ref20160829オックスフォード動物行動学事典(前編) TRPGとエソロジー
    https://kokutoarchives.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/reference201608.html

※3 HEKC=the Hyper Electric Knight Club(超電導騎士倶楽部) 現在第9版が稼働中。
    https://kokutoarchives.cocolog-nifty.com/blog/hekc09/index.html

人間と文化
 この本の1章目にあたるp9「I人間と文化」では、まず文化そのもの定義から始めている。今回、当倶楽部が重視するのはライスサイクルだ。しかしそれだけにしていては、このコンテンツ自体の理解に支障が出そうなので、あえて触れておく。

 当倶楽部がこの章で注目するのはp10「1文化とは何か」とp27「4人間の一生と文化」だ。特に後者は短い文章だが、文化と人生(ライフサイクル)の関係について書かれている。当倶楽部にとって非常に有用な記述があるので、個別に触れておく。

文化≒スタイル
 「1文化とは何か」では文化の定義に触れている。

 人間と他の動物の“人生”は何が違うか。それは文化が占める割合だ。他の種族では生き方の違う者は別の種族になる。先天的に決まっている本能の割合が高いからだ。生き方が変わるとは、生物的な基質が変わることだ。

 しかし人間は1つの種族が様々な生き方をする。それは後天的に生き方が決まるからだ。人間は生まれて育った場所の生き方を学び取る。

 この「生まれた後で学ぶ」という概念は全編を通じて現れる。人間と他の動物との違いは「学ぶ能力の高さ」だ(適応能力の高さともいう)。

 またその際、表面的な生活様式だけではなく、その基になる価値観や世界観も含めて身に着ける。文化の正体は具体的なやり方というよりも、その奥にある、ものの見方や判断の基準だ(つまりスタイルだよ)。(→hekc090502プレイの羅針盤

 余談だが“culture”に「文化≒文字や言葉を覚える」という言葉があてられたのは、この言葉を作った社会が、人間を人間たらしめているのは、文字(言葉)だと考えてきたからだ(と思う)。

 後世になると、多くの社会では、価値観や世界観は主に文字で表される。これが、文化が知識や教養といったイメージをまとう原因になっている。しかし文化人類学が示す文化は、先ほどの通りもっと幅広いものだ。

文化の潜在性
 「4人間の一生と文化」のp27「「文化の乳」を飲む」では、文化の潜在性に触れている。

 人々にとって、文化は生まれた時点で既にあり、それに囲まれて大きくなる(言い換えると、所属する文化は選べない。運命的なものだということだ)。

 だから別の文化圏にでも行かない限り、自らが属する文化を意識することはない(これがスタイルが潜在的になる原因の1つだ。(→hekc090502もう一つの理由

 自分たちが無意識に前提としていることが、実はその文化圏でしか通用しない可能性がある。文化が複数あることは頭では知っているが、1つの文化圏の中にいる限り、それを意識するのは難しい。

 また、同じ社会でも歴史的に価値観が変化していったことが書かれている。伝統的な価値観だと思っているものも、実は最近作られたりしているのだ。

 この本をはじめ文化人類学の著作には、たくさんの文化の事例が出て来る。それをもとにすれば、過去や外国に行かなくとも、普段は意識できない自らの文化を明らかにできるだろう(か?)。

 TRPGシステムは判断の基準となる価値観といった文化的な面を、ユーザー自身のそれに委ねている面がある。(→hekc091001秘儀の狩人)そもそもゲームに運用者の価値観が反映されるのは、当然の傾向だ。

 しかし、そこに安住するのは「世界を識る者」の態度としては怠惰だろう。(→hekc091001有識者のメンタリティー)この意味で自らの価値観や世界観、つまり文化を知ることには価値がある。

命の地図
 「4人間の一生と文化」のp29「人間の一生と<通過儀礼>」では、文化が人間そのものを表すために、ライフサイクルを作ったことに触れている。

 人間は生まれると、成長して、老いて、そして死ぬ。自然界においては、この流れに区切りはないと言っているが、実際にはある(よな?)。

 人間は文化によってより細かい区切りを入れている。自分たちの世界観に応じた人工的な区切りを、自然の区切りに上乗せしているのだ。

 この本から例を引くと「誕生祝、命名式、七五三、入学式、卒業式、成人式、結婚式、還暦祝、葬式」などだ。

 これを通過儀礼という。自然に起こる現象ではなく、人間が作ったもの、という意味で人工的である。人生の節目節目に人為的な目印を置くことで、人間は自らの命に地図を作ったのだ。

 命の地図を得たことで、人間は自分の人生を把握するようになった(全体像を捉えたからな)。むしろ人生を把握するために、この地図を作ったともいえる。通過儀礼がその文化の人間観を反映しているのは、このためだ(いわば「キング オブ 文化」だ)。

 キャラクターの様々な状態を演じるためには、能力的だけではなく、時間軸としても把握する必要がある。人生での現在位置が、個体の方向性を大枠で決めてしまうからだ。

 問題は、時代が下るにつれ、多くの儀礼が消滅、あるいは個人的なものとなってしまったことだ。儀礼とは本来、社会的なもの、他者に向かって示されるものだ。

 通過儀礼の縮小や消滅は、社会と個人とのつながりを減らす。共通のライフサイクルは流通を妨げられ、機能しなくなり、ついには姿を消した(いわゆる「大きな物語」の消滅だ)。

 現代は価値観が多様化した時代と言われる(よな?)。しかし実態は、失った価値観に代わる新たな価値観を持てていない状態、ではないだろうか(地図を持たない迷子だ)。

 そのため、TRPGシステムが持つ前提の多くが共有しづらい状態に陥っている。システムは意識的に自らの“文化”を表さなければ、効果をあげられないだろう。(→hekc090402色(カラー)≒雰囲気

通過儀礼の構造
 「4人間の一生と文化」のp31「時間と文化」では、ライフサイクルを形作る基本単位、通過儀礼の中身に触れている。通過儀礼は3つの時期からできている(旧p131「2成人式の過程と構造」の方が詳しい)。

起 分離期 : これまでの立場からの分離
  ↓
承 過渡期 : 古い立場から新しい立場へ移行する中間的な状態
  ↓
ミッドポイント: 新旧の割合が半々になる
  ↓

転       : 古い立場から新しい立場に切り替わる瞬間
  ↓
結 統合期 : 新たな立場の確定

 当倶楽部の起承転結に当てはめるとこうなる。(→hekc090601起承転結)これまでの立場から離れ、新旧の要素が混じる中間的な状態を経て、新しい状態に移行する。

 この構造は、変化を伴う現象のほぼすべてに当てはまると思う。成長はや老化はおろか誕生や死まで、人生に起こるほぼすべてのイベントが当てはまるのだ。

 さらに言えば、人生は生まれてから死ぬまで変化の連続であり、この本が人生を通過儀礼の連続体と捉えるのもうなずける。(→ref20151003川の流れのように

 だからこそ、通過儀礼の1つである成人への加入礼(成人儀礼)が、普遍的なストーリーモデルに選ばれたのだろう。(→ref20151003加入礼は人生を語る)よってここでも各時期における通過儀礼(的なイベントや事象)を拾い集めようと思う。

ライフサイクルの構造
 2章目のp37「II文化化と教育」では、人間がその社会の文化を身に着ける過程に触れている。

 文化化とは文字通り、人間が文化化される現象だ。それは周囲からは教育として与えられ、自らも経験から学び取ることによって起こる。つまりこの現象は、その文化の中で生きていくこととほぼ同義語なのだ。

 そして文化化は、先ほどの加入礼≒通過儀礼を出発点に経験される。儀礼よって、新しい立場に「加入」する。それによって、次の文化を身に着ける状態と環境を得るのだ。

 「加入」の視点から見れば、人生とは、誕生で現世に「加入」し、死によってあの世へと「加入」するまでの間のことなのだ。

 そして文化化は一度ではなく、一生をの間を通じて、絶え間なく、そして順番にやってくる。それは先ほどの通り、通過儀礼の連続体として経験される。この意味で文化化とはライフサイクルと同義語であり、人生そのものなのだ。

 p41「2文化化の諸段階」がこの章の中心だ。記述によると、だいたいの文化が人生を大きく3つ、あるいは4つの形で区切っているようだ(この区分は旧p33「2文化化の過程」に補足がある)。

 3分割:こども-おとな-老人

 4分割:こども-若者-おとな-老人

 よく見られる年齢による区切りではない。人間の一生は、特に後半になるにつれ、個人差が大きくなる。また時代や環境によって、おとなになるまでの期間や平均寿命などに延び縮みがある。そのため、年齢の数字で括るのが難しくなるからだと考えられる。

 今回の目論見として、年齢ではない形での人生の区切りを作る、というものがある。よって先ほどの通り、イベントや事象といったできる限り具体的な形で、それぞれの期間の区切りを示したいと考えている。

 第1次文化化:こども ~ 育児(される)・しつけ(られる)

 第2次文化化:前半 若 者 ~ おとなになるための準備

       :後半 成人儀礼 ~ 就職(独立)

 第3次文化化:おとな ~ 結婚(養育)

 第4次文化化:老 人 ~ 老後の世界

 さきほどの区分を当倶楽部向けにアレンジしたのが、これだ。4つの時期があり、さらに大きく2分されている。ここからはこの区分を使って展開していく。

 諸段階の真ん中に置いたのは成人儀礼だ。生物的に大人になった人間を文化的≒社会的にも大人にするのだ。通過儀礼の代表が成人儀礼なのは、「大人になること」が人生の一大転機だからだ。

 前半は生物的な色合いが強く、後半はより文化的になる。生まれてすぐは身心の変化速度が激しいため、それに対応しなければならないためだ。生物的な成長が落ち着いた後、文化的な上乗せが行われるようになる。

 これは立場の違いとしても現れる。前半は自らの成長であり、文化を与えられる≒文化化される立場である。後半は次世代の養育であり、文化を与える≒文化化する立場になる。

 この区分を一言で言うと、動物のそれとほとんど変わりはない。よってここでは『オックスフォード動物行動学事典』で行った、動物のライフサイクルの擬人化をさらに深化させることになるだろう。

こども

 <受精
胎児
 <出産~命名式
乳児
 <歩行と発語開始
幼児≒幼稚園児
 <入学式
少年≒児童(小学生)
 <第2次性徴

 昨今の科学的な知識の広がりから、胎児への配慮が始まり、個体の発生は受精を起点とするようになりつつある。しかしまだ、一般的な認識としては、出産が個体の発生である。

 誕生から1歳から1歳半ぐらい、発語と歩行が始まるまでは乳児である。

 歩いて話せるようになると、そこから3歳ごろまでは幼児の前期(小さいこども)と見なされる。自立した排泄と会話の成立をもって本格的な幼児期に入る。

 この頃から下の兄弟の子守や水汲みなど、仕事を任される社会もある。現在の日本では幼稚園などへの入園が始まる。

 そして6歳ごろに語彙がほぼそろう。基本的な会話に支障が無くなると幼児期が終了する。そしてその後11、2歳ごろから第2次性徴が始まるまで、少年期は続く。

 少年期になると、おとなに混じって補助的な仕事をする社会もある。現在の日本では6歳から小学校が始まり、読み書きや各学問の初歩的な知識が教えられる。

人外からの訪問者
 最初の通過儀礼はこの世に生を受けること、誕生だ、と言いたいところだが、多くの伝統的な社会では、一定の期間(だいたい数日)を経ないとこどもを人間として認めなかった(p201「生児の承認」、旧p49「児童観の文化的・歴史的変異」)。

 なぜなら、生まれたばかりのこどもは、おとなとは大きく違うからだ。見れば分かる通り、小さくて、言葉も話さず、歩くこともできない。もちろん、名前もない。

 もしかすると、すぐもとの世界へ帰ってしまうかもしれないのだ。そうならないことを確かめてから受け入れる、というわけだ。それが命名式である。幼名を含む名前をもらうことで、初めて人間として認められるのだ。

 その後は先ほどの通り、歩き、言葉を話すようになることで、“人間っぽく”なる。お食い初めや七五三など、新たな能力を獲得する(であろう)時期に通過儀礼が用意されている。

 しかしその振る舞いはまだまだ突飛で、おとなを驚かすこともしばしばだ(この傾向は青年期を経ておとなになるまで続く)。先ほどの通り、現世に留まっているものの、未だ異界に属す者と見なされた。

 そのため、通常のおとなが得ている権利が認められない一方で、課される義務や制限も免除された。「七歳までは神の子」と言われるように、宗教上、特別な役割が期待されもした(p119「男の節供、女の節供」)。

 近年では、こどもの人権という考え方が広く行き渡り、こうした異物感は薄められたように思う。現代の日本では、こどもは小さなおとなだ。こどもとしての大らかさは、ほぼ顧みられなくなってしまったと思う。

 しかし、今までこの世界にいなかった者がやってきた、という事実は変わらない。この意味で、こどもはロールプレイ困難な存在の1つである。(→hekc090302人であること

 ただ他の存在とは違い、こどもは誰でも一度は経験するものだ。こどもをロールプレイするうえでの最初のキーワードは「知る前」ではないだろうか。

 それは自分が知らないことに触れると再体験できる。何かを知る前、できるようになる前の自分を思い出せるか? これが焦点になると思われる。

 余談だが、知らないからできることもある。成長とともにできなくなることもある。先ほどの宗教上の役割とは、人の世に染まっていないが故に、できることなのだ(そういうことを表したシステムあるよね)。

 周知の通り、生まれ立てのこどもは非常に無力だ。それもおとなに想定されるのとは、ケタというか次元が違うレベルでだ(これがまたロールプレイを難しくする)。

 それはこどもがどんな文化で育つか選ばれるとき、自らがまったく関与していないことでも明らかだ(そもそも存在そのものがない!)。

 そのため、こどもに「キャラクターの課題」は基本的にはない。正確には、課題は存在するが、自分では解決しない(解決するにしても、基本的に養育者に見守られた環境の中でだ)。

 彼らにとって当面の課題は、自分を守ってくれる者、育ててくれる者を得ることだ。これを言い換えると、「自らの存在を肯定し、認めてもらうこと」だ。

 これはエリクソンの「基本的信頼」に相当する。誰かに大事にされることで、「この世界は信用できる、自分はこの世界に居ても良い」と感じることだ。

 これがないと、他者を信用せず、この世に不信感を持ってしまう(これがひるがえると、自分の方を要らないもの、劣ったものと見るようになる)。

 姿かたちを含め、こどもは本来、守りたくなるような性質を備えている。そもそも、おとなにとってこどもは、次世代を託すために自ら生み出した者だ。よってこれはそう難しいことではない(はずだ)。

 こどもの課題を敢えて言うなら、養育者のものとで学んで成長すること、「とにかく大きくなる」ことだ。先ほどの通り、彼らは“人間”になる途中なのだ。自分で課題に取り組むのは“人間”になってからだ。

こどもと労働
 こどもの成長はほとんど生物的、つまり自然の側に属しているため、本人も含め人間の側からは操作できない。そのため、年齢によるくくりが可能になる。こども時代は自然な成長に、文化の方が合わせる時期と言えるだろう。

 ただし、どこでもそうだという保証はない。人間の成長を操作する技術のあるゲーム世界なら、これも成り立たなくなるだろう。(もっとも、運用は難しいけどね)。

 また、年齢によるくくりがあるものの、各文化におけるこどもの扱いはさまざまだ。それどころか、同じ文化の中ですら、歴史的には変化している。

 ここで特に面白いのは労働に関する面だ。先ほども触れたが、かつてはこどもも働いていた。全く働かず、専業で学び遊ぶ、というこども像は、時代がかなり下ってから現れたものだ。

 p67「1時代・文化と子ども観」では、西洋の事例から歴史的に、p73「2子どもの生活を規定する文化要因」では、こどもに求められる労働の内容に触れている。

 結局のところ、こどもがこどもとして扱われるようになったのは、労働からこどもが完全に離れることによってなのだ。

 働くことによって、こどもは“小さなおとな”になる。“働かざる者食うべからず”の論理によって、両者の違いは働き方の違いになってしまうからだ。たくさん働く者にはたくさんの権利がある、それだけのことだ。

 余談だが、現代のこどもが“小さなおとな”になってしまうのは、権利の尊重によって、“働かざる者こそ、食わすべし”となるからだ。

 注目すべきは、エリクソンのいう「自律性」や「積極性」が、この労働に強く現れる点だ。働いているこどもは、これらの要素を高いレベルで持っていることが読み取れる。

 仕事を“任される”ことで、自分で基準を作り、そして行動するからだろう(社会の側にしても、いちいち細かいことを言わなくても、動いてくれる方が良い)。「自分で考えて、行動する」という自主性が、この時期に身に付けられるのだ。

 現代のこどもに「何もできない」「やる気がない」という批判は、ある意味矛盾している。おとながすべてやってしまうのだから、できないのは同然だ。それは暗に「お前たちは何もやらなくてもいい」と社会が言っているのと同じだからだ。

 一方、学業やスポーツにしても、こどもには任せず、逐一おとなが進捗を見て、指導する。そこに責任は生じない。代わりに、それは自分のためとは言われるが、当面必要のないことだ(「なぜ勉強するの?」は当然の疑問だ)。

 そのため、現代のこどもが自主性を身に付けるには、好きなことを見つけるしかない。それも強烈に魅かれることだ。それと学業やスポーツをつなげなければ、やる意味を感じられないのだ。自主性が身に付きにくいのは当然の結果だろう。

 文化におけるこども観の多様性は、実は「どうやって生計を立てるか≒働くか」に拠っていると言えるだろう。文化と労働、一見するとミスマッチだが、文化が「人間としていかに生きていくか」であることを考えると、これもうなづけると思う。

 「こどもの仕事とは何か?」、「そもそも働くのか?」は、その世界の文化を知る良い指標になりそうだ。

文化の最小単位は家庭
 いずれにしても、それぞれの文化のこども観に沿って、育てられたこどもがおとなになり、その社会が作られる。と、言いたいところだが、事情はちょっと複雑だ。

 文化人類学が扱ってきた(と思われる)社会は、それ自体は小規模な一方、家庭は多世代で大家族が多い(どこかの先住民族〇〇族とか)。その場合、家庭と社会の文化に大きな違いはない。

 家族とされる人数が多いということは、外部とのやり取りが多い。また多人数がまとまるためは、共通の価値観、つまり文化が必要だ。このため家庭は社会の縮図となり、相似関係になるからだ。

 逆に家族の人数が少なくなるほど、外部とのやり取りは減り、その家庭の文化はよく言えば個性的に、悪く言えば偏る傾向がある。核家族や親と子が各一人しかいない形ともなれば、家庭における文化はほんの数人のものになるからだ。

 また、少人数ではすべての分野を網羅できないため、文化に欠損が生じることになる。ある分野に判断基準を持たないことになるのだ。価値観の多様化の本当の姿を、多様化というよりも、価値観そのものがないとしたのはこのためだ。

 つまるところ、こどもの価値観を形作るのに、最も影響が大きいのは家庭だ。本格的に社会に出ていく前は、まず家庭が彼らの社会になるからだ。そしてそれは家を出て、独立するまで続く。

 よってもし家庭で、社会と大きく違う文化を書き込まれた場合、その者が社会に出たとき、周囲と摩擦を起こす。

 p80「意味体系の違いと子どもの世界」では、北米のアーミッシュを例にしているが、周囲とあまりに違う文化を生きる人生は、良い意味でも悪い意味でも、起伏に富んだものとなるだろう。

 特に現代において、どんな家庭に育つかは個人の人格を作るうえでの根底となり、また一番の要因になるだろう(逆に存在感を示せず、まったく作用しない可能性もあるが)。

 また、古い時代をモデルにしたゲーム世界なら、PCの職業が生まれた家によって決まる社会も多い。現代的な社会でも、自営業などで仕事と家庭が分離していない場合は、その影響を受けることが多い。

 親の職業というのは、少なからずこどもに何らかの影響を与えるものだ。ただし、そこまで考えたキャラメイクを実践しようとすると、負担を軽減するノウハウが必要になるだろう。あくまでも、システムがフォローしている場合に限ると思う。

若者

 <第2次性徴≒若者組への加入≒中学生
思春期
 <成人儀礼≒高校生・就職
青年期
 <高校卒業・就職
青年期
 <成人式
青年期
 <専門学校/大学卒業・就職

 若者の時代は、大きく思春期と青年期に分けられる。青年期は時代が下った後にできたもので、伝統的な社会にはほとんど存在しない短い期間だ。しかしその青年期の発生、あるいは拡大が今日の社会の特徴になっている。

 それはTRPGも無関係ではない。多くのシステムがこの時期をPCのライトモチーフにしているからだ。そもそも、原TRPGとも呼べる『D&D』が、この時期の問題から発生したと当倶楽部は考えている。(→ref20150730追憶のロード・ムーヴィー

思春期~2つの性
 誕生時にある性別に象徴される第一次性徴は形だけの性であり、要は文化的な性別の目印でしかない。実は性に関しては、生物的なセクシャリティよりも文化的なジェンダーが先行する。

 こども時代から教えられる「男らしさ」とか「女らしさ」とは、基本的に文化的なものであり、身体的な違いと直結しているわけではない。

 子ども時代に教えられてきた性別は、いうなれば“フィクション”なのだ。そのため非常に多様である(旧p60「男の子・女の子」)。第2次性徴が始まると、それがいよいよ本物となる、さらに言えば我が事となるのだ。

 第2次性徴の始まりによって、こども時代は終わりを告げる。そしてひと段落すると思春期は終わる。体自体は成長するが、質的な変化はここで終わり青年期に入る。

 先の通り、この本によると、若者の時代はおとなになるための準備期となっている(p47「3おとなへの旅立ち」)。

 その一歩は性を知ることだ。仲間と異性への関心、言い換えれば同性と異性だ。いわゆる青春時代はこの2つでできているというわけだ。

性のリテラシー
 思春期の課題とは、いわば「自らの性別の確立と把握」だ(異性の把握はできない、と思う。それは永遠の謎だ)。この時点での異性への関心とは、異なる性別への関心であって、個人へのものではない。

 正確には個人と性別は不可分であり、性別のない個人など現実には存在しない。よって相手への関心のうち、どのぐらいが異性に関するものか、分けて考える必要がある(実際には直感的、感覚的なものだ)。

 また、異性への関心いうと、即ち直接的な身体レベルを思い浮かべがちだが、その内容には勾配がある。身体的な刺激を煽り立てるポルノグラフィーから、好感を抱かせるアイドルのポスター、性別を認識するだけの男女の記号など、そのレベルは様々だ。

 人間の世界は性別に見事に覆いつくされている。ほぼすべてのものが、男性性と女性性に振り分けられているのだ。それを担っているのが文化における性別(ジェンダー)だ。

 異性への関心によって、社会が持つ性的な側面に目が開かれるようになる(辞書で性的な単語をせっせっと探したりするぞ!)。それは今までの世界観を大きく変えることになるだろう。

 性のリテラシーを身に着ける方法として、伝統的な社会には通過儀礼の一部として、性体験をさせるところもある。このぐらい性に関してオープンで肯定的な社会も多い。

 一方、現代の日本における性教育はどうなっているのだろう。生物的な事実と、各文化に見られる多様な価値観、この2つの学習は、性のリテラシーを身に着けるうえで有用だが、その機会はあるだろうか。

 余談だが、意外にも、文化人類学はこういうことに明るかったりする。p175「性、愛、結婚」では、様々な性と愛の形に触れている。本能の赴くままというイメージがあるが、これもまた、とても人工的なものだったりするのだ。

 自分の社会に対する言及はなかなか難しいが、他の社会なら「他所のこと」として、ハードルが下がるからではないだろうか。

 現状において、性を前面に出したセッションは難しいと当倶楽部は考える。他ジャンルに見られるような、内容を固定することで、送り手が情報をコントロールする手法は、TRPGでは使えない。

 あるいは基準を示して共有するにしても、現在の日本では、それを表示すること自体が難しいと当倶楽部は考えている。

 基本的に、性的な事柄は間接的に示し、次にそれを抽象的な描写レベルで表すに留めるのが良いと考える。加えて、その事柄がそのときの展開に必要なのか、まず発信者自身で考えるのが良いだろう。(→hekc091102表現規制

仲間集団と性別
 伝統的な社会では、少年期にはこども組、第2次性徴を迎える頃には若者組と呼ばれる仲間集団に入る。現代では同じ時期がギャングエイジと呼ばれ、同じような集団を作る。

 両者の違いは前者が強制的で公的、後者が任意で私的である点だ。これは社会的な制度が廃れてしまったが、仲間を作るという性質だけは残ったためだろう(p135「血縁・地縁・約縁」)。

 その仲間集団だが、基本的に同性の集団だ。異性との友情は成立しない、としばしば言われるように、特殊な条件がそろわない限り、それぞれの性は異性をまず性の対象として見るからだ。

 しかし性的な関心とつながりだけが人間関係ではない。人間関係を作るために、性別を気にしないで済む方法の1つが、同性同士で集まることなのだ。

 この時期の同性集団の目的とは何か、同じような境遇にある者同士が集まって、おとなになる準備をすることだ。縦には、主に仕事に関する知識や技術の伝達であり、横には相互の援助だ。

 余談だが、エリクソンの「勤勉性」が身に付くのが、同性の仲間集団においてだ。勤勉性とは、一言でいうと「物事をやり遂げる力」だ。

 その原動力となるのが、物事をやり遂げたときに味わう達成感だ。これは人間にもともと備わっている心理的特性だが、いうまでもなく、やり遂げないと生じない。

 それを補強したり強化するのが、他者からの承認だ。基本的には誰からでも生じるが、同じ価値観を持つ者からの承認が最も効果的だ。

 なぜなら、認められるということは、彼らの意識の中に存在が残る≒受け入れられることだからだ。この同じ価値を持つ集団は、しばしば生涯に渡って続き、アイデンティティの源になる(この意味ではライバルも仲間に含まれる)。

 よって若者の課題として「自分の仲間を作る(探す)」があげられる。先ほどの承認も、結果的にはここにつながる。(つまりライバル心≒競争心とは、相手に自分の存在を認めさせたい心理の変形でもあるのだ)。

 余談だが、学校は一見すると仲間集団のように見える(p53「成年儀礼としての学校」)。しかし学校における授業や学習は基本的に個人的なものだ。むしろそこで作られる先輩後輩・友達などの交友関係や、部活動がこれに当たるだろう。

 そしてそれは一方で、それぞれの性別の文化の継承のためでもある。言うまでないことだが、各々の性の文化は異なる性別の者には教えられない(色々な意味でな)。

 同性で集まることは、思春期以降に来る性別の違いをより際立たせるためでもあるのだ。自らの性が確立していないと、異性への態度もあやふやになってしまう。

 余談だが、しばしば同性による性交渉を、文化的だとして肯定する社会もある。この点については、文化の人工的な面をこじらせてしまい、自然から離れること自体が目的となってしまっている疑いがある(先天的な要因によるものとは別だぞ)。

 性別によってすべてが決まるわけではない。しかし世の中を分かりやすくするのには、格好の指標でもある。先ほどの通り、文化的には、性別で世界が2分されている。

 ただ、その明快さの誘惑に負けてしまうと、世の中を「男らしさ」「女らしさ」で2分して、個々を顧みなくなってしまう。同性集団にはそうした傾向があるので注意が必要だ(歴史的に見てTRPGシーンにもね)。

 逆に現代においては、表面上は性差を解体する方向にある。男女平等が謳われ、性別を参加条件にあげることはほぼない。

 しかし事実として、性差は存在するのだ。こちらでは逆に生物的な現状を無視して、男女を同質に扱おうとする傾向がある。

 人間にとって性別は永遠の課題だ。性急な結論を出さずに一生を通じて付き合っていくものだ。若者時代はそのスタートなのだ。

成人儀礼の正体
 当初のイメージでは、成年儀礼によって若者からおとなになるイメージだったが、実際には若者時代の後半に成人儀礼があるようだ(p151「VII成人式と一人前」、旧p127「VII成人式の意義)。そのため、先ほどの人生区分を修正した。

 多くの伝統的な社会では、第2次性徴が始まる頃、若者組に加入し、本格的に働くようになる。第2次性徴が落ち着いた頃に成人儀礼があり、社会的にはおとなと認められる。同時あるいは数年のうちに結婚する。

 生物的な成熟と社会的な認知が、ほぼ一致しているのだ。明らかな儀礼を行わない社会でも、時期的なものはあまり変わらない(ようだ)。

 一方現在の日本にも成人式はある。周知の通り二十歳で行われる“あれ”だ。法的にも二十歳でほぼおとなとして扱われる点で、社会的な整合性はある。

 中学を卒業後に就職し、二十歳で成人式を迎えるパターンは、伝統社会に最も近い。法律を作った当時はこのパターンを想定していたと考えられる。

 成人式の時点で、すでに結婚している者もいただろう。それでも結婚の年齢は伝統的な社会に比べて後になっている。

 高校を卒業後に就職する場合は、青年期が短いが、成人後に早く結婚すれば、先ほどの範囲に収まるだろう。しかし多くの場合は、それよりも遅かったはずだ。もうこの時点で、伝統的な社会からすれば、かなりの晩婚と言えるはずだ。

 専門学校や大学の在学中に成人式を迎え、卒業後に新卒で就職する。成人式が就職を追い越している時点で。伝統的な社会との違いは明らかだ。

 そして就職から数年で結婚していたが、現在の日本における実際の結婚の時期は、さらに遅くなっているか、そもそも結婚しなくなっている。

儀礼による社会的認知

就職による経済的独立

結婚による家庭の発生

 伝統的な社会では、3つのことがほぼ同時に起こっていた。時代が下るにつれ、成人儀礼≒就職≒結婚という構図が崩れ、段階的になっていくのが分かる。

 実は伝統的な社会でも成人には段階がある。まず一人前の仕事ができるようになることが、おとなになる第一の条件だ。そこには明らかな指標があった。(p124「一人前と成女」)

 先ほど触れたPCのライトモチーフの1つがまさにこれに当たる。本格的に仕事に就くだけの体力や技量が「ほぼ」備わっている者だ。

 冒険が成人儀礼のモチーフを実践する形になっている。彼らは冒険によって経験を得たり、実績を示すことで成人するのだ(これは年齢的に若いPCの場合だ)。

 一人前の仕事ができるようになると、それを儀礼によって社会的に認めることでおとなになるのだ。そして同時に、結婚が可能になった目印として、成人儀礼を扱っている。特に女性に関してはその傾向が明らかだ(p124「一人前と成女」)。

 つまり、一人前とは、親から独立して、新しい家庭を持てるぐらい「稼げる」ということだ。そして伝統的社会には基本的に「結婚しない自由」はない。

 伝統的社会において、一人前のおとなになる目的は、実は結婚するためなのだ。成人式はおとなへの第一歩であり、就職ですら、その途中でしかない。

 しかし現代において、結婚は個人の自由とされている。そのため、結婚を以っておとなとすることは社会的には認められなくなった。現代の社会では、就職が唯一のおとな≒一人前の条件である。

 とはいうものの、実際には、それだけでは生物的にはもちろん、先ほどの通り、文化的にも求められるおとなの役割は果たせない。

 実態との乖離によって、おとなの定義がゆらぎ、自分にとってのおとな像を個人的に探さなければならなくなった。これにより若者時代の延長あるいは若者とおとなの中間期が出現したのだ。

 「自分で生計を立てられるぐらい稼げる」が、この時期の課題である。それはエリクソンの「同一性(アイデンティティ)」の確立に相当する。自分が社会において何者であるかを決めることだ。

 言い換えれば「社会に居場所を見つける」ことだ。(→hekc090701一つになる世界)しかしこれは、青年期の課題である「おとなの探索」を始め、そして続けるために必要な条件に過ぎない。社会に出て、そこに居続けるためには先立つものがいる。何かしらの資産でも持っていない限り、自ら働くしかないからだ。

 それは、ちょうど、初期のPCがレベルアップをくり返し、その役割を十分に果たせるようになっていく過程につながる。言い換えれば、もし初めから十分な能力を備えているキャラクターであれば、もっと別の課題があるということだ。

後編に続く
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